「悟り」について思う事

谷山です。

今回の記事のテーマは「悟り」です。

なぜこういうテーマにしたかと言うと、先日レッスンに来られた生徒さんと色々と話していたた時に話が出たのですが、その方はスピリチュアル関連の動画や書籍をたくさん読むそうです。

そんで、ここ最近はいわゆる「一瞥体験」(いっぺきたいけん)をされた人がたくさんいて、そういった人が「それ系」の書籍などを出してるみたいです。

※「一瞥体験」とは何か自分が「ブワー」と広がって今までの経験や知識が崩れるぐらい強烈な内向体験の事を指します。「一瞥体験」で検索するとそれ関連のページがウジャウジャ出てきますので興味あれば調べてみてください。

実際、僕もそのような変わった体験をした経緯があり、その経験からこの世界に入ってきました。

あの衝撃は確かに凄かったです。

一氣に自分の感覚が世界中に広がっていく様な感じでしたからね~

そんな感覚もう忘れちゃいましたけど(笑)

さて、そんな「一瞥体験」ですが、世間では「悟り」とも言われているそうです。

そんな「悟った人」がブログや書籍で「悟ると楽になる」なんて言ってるから「自分も悟りたい」という「悟り難民」がたくさん出ているようです。(悟り難民ってなんやねん)

そんな風に多用されるようになった「悟り」ですが、「悟り」の本家である「仏教」では「悟り」(一瞥体験)に段階を設けています。

悟りの階梯「四向四果(しこうしか)」

「仏教」において「悟り」の段階を表したモノが「四向四果」と呼ばれています。

ひとことで「仏教」と言っても分裂を繰り返しており、「四向四果」に関しても上座部(原始仏教)と大乗仏教では言ってる事も多少違うし、そもそも上座部には「四向四果」なぞない!という説もあるので、諸説入り乱れているおりますので混乱を避ける為にここではあえて「仏教」と一括りにします。

「四向四果」には四段階あり、それぞれ「悟り」の段階が違います。

預流果(よるか)

「悟り」の初期の段階であり、この悟りを会得すると有身見(うしんけん)、疑(ぎ)、戒禁取見(かいごんじゅけん)の3つの煩悩が落ちるとされています。

一来果(いちらいか)

「悟り」の二段階目で、この段階まで来るとあと一回生まれ変わるだけで悟りを開けると言われています。三大煩悩である「貪・瞋・痴」が薄まってるそうです。

不還果(ふげんか)

大いなる意識みたいなモノに目覚めると「不還果」と言われる段階に入り、ここまで来るともう人間に生まれ変わる事はないそうです。「貪・瞋・痴」が完全に断たれてる状態

阿羅漢果(あらかんか)

人間が生きてる上で最高の「悟り」の段階。煩悩がすべて滅されて何事にも執着しない極地だそうです。

ここでは説明を省きましたが、それぞれの段階に向かう「預流向」「一来向」「不還向」「阿羅漢向」の四つがあり、それらを合わせて「四向四果」となります。

ふっ~  「悟り」ってのも色々あるんですね~

「悟り」の段階について思う事

この「四向四果」を初めて知った時に、自分がした体験はいわゆる「預流果」に相当するモノなんだな~と思いました。

「預流果」で消える「有身見」という煩悩は「自分が独立した存在である」という煩悩であり、言い換えると「自分の正体は肉体である」という煩悩です。

僕が体験をした際に「ああ、やっぱり人間は肉体が全てではないんだ」という強烈な感覚があったので「有身見」が剥がれ落ちたんではないかと思います。

別に僕は「仏教徒」ではないのでそんな事はどうでもいいんです。

でも「悟り」ってのは「自我」を消していくと言われているのに、こういう風に「段階」をつけるとなんだか「偏差値的」な感じがして逆に「自我」を強めてしまいそうな氣もします。

「え?あなたまだ「一来果」なの?私はもう「不還果」よ、オホホホホ」

みたいにね(笑)

まぁ、僕みたいな未熟者が歴史ある「仏教」に対して偉そうに言える事ではないですが・・・・・

「悟りを開いた」っていう人を見てると何だかちょっと痛い

そんな感じで「私は悟った」みたいな事を言ってる人いますけど、なんだか違和感を感じます。

「滅私」であるはずの「悟り」なのに「私は」みたいな事を言ってる時点で何だかなって感じです。

実は「悟り」とは「滅私」である事すら幻想であり、「滅私」など必要ないのかもしれませんけど・・・・

僕みたいな者には難しすぎる話です。

まぁでも実際に妙な体験をした僕から言わせてもらうと、「一瞥体験」みたいなモノは人間の「脳」のバグというかメカニズムなんだと思います。

科学で解明されている訳ではないのですが、そっちの方が僕にはなんだかしっくりきます。

妙な体験をしている最中、「これが悟りか!」っていう体感がビシバシあったけどね。(まぁ、だから魔境に入ったのですが)

なので「悟り」というモノに対する「神秘性」を否定している訳ではありません。

こういった経験をする人が増えているのも何かしら時代の変化の前触れなのかもしれないし、そうじゃないかもしれません。

「私は悟ってる」「あの人は悟ってる」なんて「悟り」なんてモノに拘らず、しっかりと自分の人生を生きていった方が有意義なんじゃないかな~と僕は思っています。

結局、「悟りたい」って願望を持ってる人は何か生活で困っている事があって、それからの逃避的な意味合いで使ってる場合が多いと思います。(全員が全員じゃないだろうけど)

日常で困ってる事があったら「悟る」より現象や行動を変えていったほうがどれだけ有効的か・・・・・

それに仏教的には「悟りたい」ってのも「悟り」を遠ざける煩悩だしね。

「悟り」に救いを求めるんじゃなくて日常をしっかり生きてこうって話です。

今回「悟り」をテーマに記事を書きましたが、壮大過ぎてなんだかとりとめのない感じになってしまいました。

ただ、一つこの記事を書いていて悟った事があります。

それは「四向四果」とか「預流果」って文字は漢字変換するのがやたら面倒くさいという事です><

もう書きたくない・・・・・