「動じない人間」になりたい人の理想と現実

谷山です。

問い合わせをいただいて、その問い合わせの中で多い質問が

「物事に動じない自分になるにはどうすればいいでしょうか?」

という質問です。

これは逆からみると

「外部からの刺激に反応しまくっていて困っています。どうすればいいのでしょうか?」

という見方もできます。

僕もそうですけど、やっぱり皆さん「動じない自分」というモノに憧れてるんですね~

「動じない自分」「揺れない人」

何だかカッコイイ響きですが、どの様にして人は「動じない人間」になっていくのでしょうか?

そこら辺を「氣塾」で「行」に入ってる人になぞらえて見てみましょう。

氣力が強くなると精神が揺れるのを嫌う様になる

これはブログで何度も言っている事ですが、「氣力」が強くなると精神が揺れるのを嫌うようになってきます。

分かりやすく言うとそれこそ「物事に動じずらくなる」と言える訳です。

何というか「揺れる」事が面倒くさくなるとも言い換えられます。

もし今、このブログを読んでくれてるあなたが、自分で自分の事を「動じやすい」と思っていたとします。

そんなあなたは今日はカレーが食べたかったのに、その氣分を裏切られるかのように

「今夜のおかずはハンバーグだよ」

と言われたとしても

「ふ~ん、今日は氣分じゃないけど、ま、いっか」

ぐらいの反応になると思います。

「えええええ! カレーじゃないの!? どうしよう、どうしよう・・・・・・ああ、今日はカレーの氣分だったのに・・・・・もう生きていけない・・・・・」

とはなりませんよねぇ

カレーが食べたかった・・・・・

晩御飯のおかずぐらいではそこまで揺れないと思います。

でももし仮にそういった場面に遭遇したとして、その程度の事で精神を動かすのって面倒くさくないですか?

もちろん、その「揺れてしまう出来事」ってのも人それぞれですが、「氣力」が強くなってくると明らかにその幅が広がってきます。

以前は明らかに「精神を揺らす出来事」だったとしても強くなってしまえばそれが「別に揺れない出来事」になっていくという訳です。

何か長い「例え話」を出しましたが、要は「氣力」が強くなるといちいち揺れるのが面倒になってくるって事が言いたかったんですね。

理想の自分と現実の自分

そんな感じで皆さん「動じない自分を作りたい」とよく仰ります。

そして「氣力」は「筋力」よりはやくつきます。

「筋肉」がついてくるのだったら見た目にも分かりやすいし、持てる重量も増えてくるのでまさに「目に見えて」変化が分かります。

しかし、「氣力」の場合は目には見えません。

「動じない自分」を作りたいと言ってもどのラインまで行けば「動じない」と言えるのか?

また、「動じない自分」とは本来どういった自分なのか?

実はこれが明確になっていないケースが多々あります。

多くの人が憧れる「動じない自分」とは

・泰然自若である

・心にゆとりがある

・信念がある

・落ち着いている

などを想像すると思います。

こんな人、カッコイイよね。

僕も含め、そんな「理想の自分」に憧れている人って結構多いのですが、実は「氣力」が強くなっていく過程で、そんな「理想の自分」と「現実の自分」との差に戸惑ってしまう事もあります。

まず「氣塾」で呼吸法とセッションを受けていると自然と「氣力」はメキメキついていきます。

さっきも言った通り、「氣力」がつけば精神は揺れづらくなり、「物事」に勝手に動じなくなってきます。

ただし、最初のうちは思い描く「理想の自分」とは少しかけ離れた感じになるかもしれません。

何故ならばさっきも書きましたが「氣力」はつくスピードが早いので人によっては「変化」のスピードがあまりに早く、「自分だと認識してる自分」と「実際に変化した自分」にギャップが生じるからです。

どういう事かと言うと、人間は誰しもが「自分とはこういった性格である」と「自分」に対してある種のレッテルを貼っています。(思い込みみたいなもん)

しかし、変化のスピードが早すぎると「レッテルを貼ってる自分」と「変化した自分」の差に頭がついていかず、軽く混乱してしまうケースもあるからです。

分かりやすく言うと

「確実に氣力は強くなって物事に動じなくなってきてはいるのだけれども、それが動じなくなっているのかどうか判断できない」

という感じです。

そう、「動じない」という事は言い換えると「どうでもいい」とも言える訳で、「どうでもいい」からいちいち「動じない」訳です。

さっきの夕飯のおかずの例ではありませんが、「氣力」が強くなってくると大体の事が「どうでもいい」みたいな感じになってきます。

「あの~・・・・何だか最近、色々な事が起きても「どうでもいい」って思ってしまって氣持ちが動かないんですよ・・・・」

そんな相談を受ける事もありますが、実はこれぞまさしく「動じていない」という事なんです。

揺れてませんからね。

「物事に動じない人」と「何事もどうでもいいと感じる人」っていうのは聞こえは全く違いますが、紙一重って事です。

まずこれが理解できないと、段々と物事に動じなくなってきている自分自身に対して

「あれ?何でだろう・・・・今まではメッチャ動じてたのに今はどうでもよく感じる・・・・・無氣力になってしまったのかな・・・・・?」

という風に「理想の自分」と「現実の自分」の差にギャップを感じてしまう訳です。

僕もそうでしたけど、この「理想と現実の差」って結構混乱してしまうモノなんですよね。

段々と「理想の自分」に近づいていく

そんな感じで自分の変化に頭が追いついていかないと

「あれ?私どうしちゃったんだろう・・・・・」

と思う事も多々出てきます。

これは僕も経験しました。

「どうでもよくなる」て聞くとなんか粗雑なイメージがありますが、「どうでもよくなる」って言ってもただの「無関心」というより「どっちでも構わない」って感じかな~

「精神」の事なので文章で説明するのは難しいのですが、「選択した上で興味を持たない事を選んだ」って感じが一番近いかもしれません。

この「選択した」って事が結構重要で、「どうでもいい」ってなっても無意識下で選択した上で興味を持てない事に氣付ければ、何かが起きた時に「揺れる」か「揺れないか」というのが選べる様になってくるんです。

そう、今までは無差別的に外部からの刺激に反応していたのが、反応するかどうかを自分で選べるようになるって事ですね。

確かに最初は「揺れない自分」に対して「無氣力になったのかな?」と思ってしまう場合もあると思います。

そういった場合でも僕の経験上、日常的な事は今まで以上になんなくこなせるはずなので「無氣力」になってしまった訳では100%ありません。(氣力強くする事やってんだから無氣力にはなりませんよ)

それはただ、「変化した自分」に頭が追いついていないだけです。

「行」のよく出来ている所は、そこら辺の変化も既に織り込み済みでカリキュラムが出来ている所だと思います。

例え、今自分の事を「無氣力」に感じていたとしてもキチンと進めていけば「自分が本当に興味あるモノ」と「どうでもよく感じるぐらい興味が沸かないモノ」というのが明確にわかれてきます。

そうなってくると「自分が揺れたい事」に対して尖った集中力を持って興味を注ぐ事が出来るようになりますし、「揺らしたくない事」に対してはホントに動じなくなります。

「動じない」という事に慣れてくるまでは「動じてない」という事と「どうでもいいと思ってしまう」という事が混合しやすいんですよね。

なので「理想の動じない自分」(泰然自若な自分)と「現実の動じてない自分」(どうでもよく感じる自分)のギャップに戸惑ってしまう事もあります。

でも何度も説明している様に、それは「慣れ」の問題です。

「氣力」が強くなってくると最初は何事も「どうでもいい」と感じてしまい、混乱するかもしれませんが、それは「動じなくなる」最初の一歩であり、慣れてくればさっきも書いた通り、「選択」できる様になります。

人間って外部からの刺激に反射的に反応してしまいます。

でも「氣力」が強くなればその「反応」すらも自分で選べるようになってきて、ネガティブな事には揺らされづらくなります。(ポジティブな事には多少揺らされてもいいと思うの)

普通、「氣」などを扱わない一般の人は「動じない自分」を作るにはそれなりの修羅場やプレッシャーを乗り越えなければいけません。

そういった大変な場面を乗り越えた人は強い氣力を持っています。

「修羅場を乗り越えたから氣力が強くなる」

とも言いかえる事が出来ますが、「氣塾」では

「氣力を強くして修羅場を乗り越える」

という逆パターンなので、最初は戸惑いも生じるかもしれません。

「氣力」が強くなり、何事も「どうでもいい」様な感じがして、一見「無氣力」だと勘違いしてしまう様な場合でも、それが実は「理想の動じない自分」に近づいている訳です。

「理想の自分」に辿り着く道筋は必ずしも「自分の思い描いた道」だとは限らない訳ですね。

何にせよ

「何事にも動じない精神」

は目指す価値のあるモノだと思いますが、そうなっていく過程は自分が思い描く限りではないって事です。(特に精神の変化は)

「氣塾」の呼吸法は「変わりたい!」なんてこんな風に思ってる人にはバッチリ向いてると思いますよ。